千田嘉博教授による特別寄稿文

   知略の武将・宇喜多直家と
      豊臣家を支えた大老・宇喜多秀家

撮影:畠中和久

Guest

千田 嘉博 教授(せんだよしひろ)

城郭考古学者。名古屋市立大学高等教育院教授。奈良大学特別教授。
永青文庫評議員、文化剤石垣保存技術協議会評議員、
奈良国立博物館評議会、姫路ふるさと大使などを努めている。
大河ドラマ「真田丸」の考証を務めるなど、メディアでも多く活躍する。

ゆかりの地より学ぶ、
直家・秀家の生き方


 戦国の智将・宇喜多直家は、古くは謀反や謀略で力を得た武将とされてきました。しかし戦国時代は、信濃の真田昌幸が徳川・北條・上杉といった巨大勢力を手玉にとって大名になったように、自分の能力で運命を切り拓いて成功できる時代でした。誰もが自分の能力で大名や天下人になれると思うのは、江戸幕府や大名にとって危険な思想でした。だから江戸時代に直家は悪く批評されることになったのです。そして、ひとつの会社に定年まで務めるのが正しく幸せとした戦後の日本社会も、直家を正しく評価できませんでした。

 しかし現在の私たちはどうでしょう。働き方は多様になり、自分らしさを発揮してよりよく生きるための転職はもう普通になりました。つまり私たちの時代は、ようやく直家の生き方に追いついたといえるのはないでしょうか。毛利と織田という大勢力に挟まれた備前で、直家は知略で勢力を拡大し、乙子城、亀山城(沼城)、金川城を経て、ついに岡山城を居城にして今日につづく岡山の歴史をつくりました。

 直家ゆかりの史跡を訪ねると、自身の行動で運命を切り拓いていった直家のすごさを体感できます。権威や前例にとらわれず、新しい発想によって時代を変えていった直家から、私たちの時代の問題を解決していく勇気をきっと得られると思います。

 そして宇喜多秀家は豊臣秀吉に愛され、豊臣政権の大老として活躍しました。わずか14歳だった天正13(1585)年に、従五位下侍従として羽柴秀長(豊臣秀長)、羽柴秀次(豊臣秀次)たちとともに天皇の御所への昇殿を許される殿上人になって「備前宰相」と呼ばれました。その3年後の17歳で秀家は、従三位参議に昇進して豊臣政権を支える最上位の大名になり、文禄3(1594)年には従三位権中納言に昇任して「備前中納言」と呼ばれました。

 秀家は秀吉の四国攻め、九州攻め、小田原攻めなどに出陣し、文禄の役では渡海した豊臣軍の総大将を務めました。その一方で壮麗な天守をはじめとして岡山城を当時最先端の城として整え、城下を整備しました。秀吉の養女(前田利家の娘・樹正院)を妻にした秀家は豊臣政権を支え続け、慶長(1600)年の関ヶ原の戦いでは、西軍の主力として奮戦したのです。

 関ヶ原の戦いの後に八丈島に配流になった秀家は、故郷に帰ることを夢見ながらついに叶いませんでした。ゆかりの地を訪ねて、そんな秀家に心を寄せてほしいと願っています。