時代の先駆者 宇喜多直家を知る

享六禄 2年(1529年)、備前国邑久郡豊原荘
(現・岡山県瀬戸内市邑久町)の砥石城に生まれたといわれる。
家門は在地領主。『備前軍記』などによると6歳のとき、 祖父の能家が西隣の高取山城主島村盛実に攻められ自害すると、父興家とともに城を脱出、 備後輌・備前福岡・備前笠加を転々とする。この間に父が病没し、天文12年(1543) 、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には吉井川河口の小城塞・乙子城の城主に抜擢され、砥石城を奪還するなど数々の戦功を挙げる。
永禄 2年(1559) 、岳父・中山勝政を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵 島村盛実を謀殺。以後、亀山城(沼城)を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍ノロ城を攻略。
 
◆岡山開府
永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。 翌年2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって聡退 (明禅寺合戦)、この完勝をもって「戦国大名」となる。
翌年には備前国西部の有力者 松田氏を滅ぽして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)頃、岡山平野制圧を意図し、好適地の岡山城(石山の城)を奪うため同城主・金光宗高を誅殺。大改修を施して天正元年(1573)頃入城。これが今に伝わる岡山城の前身となり、「城下町・岡山」の歴史が幕を開けた。
 
◆織田と毛利のはざまで
力をつけた直家はついに主家・浦上宗景と対立するが、宗景はもはや直家の敵ではなく、天正5年(1577)滅亡。
その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対抗して毛利氏と結ぶが、のち信長に帰属。
毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により波乱の生涯に幕を閉じる(天正10年説もあります)。
直家は正攻法よりも権謀術数を多用したため「戦国の梟雄」とおそれられるが、裸一貫から中国路有数の戦国大名にのし上がったその実力は、 時代の先駆者として異彩を放っている。


 

宇喜多直家木造 岡山市光珍寺旧蔵
※昭和20(1945)年の岡山空襲で焼失

 

砥石城跡の麓に立つ「宇喜多直家生誕地」石碑