岡山城
直家・秀家親子が築いた「岡山」のはじまり
元亀元(1570)年、宇喜多直家は、当時石山の丘に中心があったという岡山城(石山の城)に進出します。そのことが岡山のまちの始まりになりました。その後直家は、東備前中心に勢力を誇った浦上宗景を破り、備前・美作の覇者となりました。
なぜ直家が岡山を居城に選んだのでしょうか。それは以下の理由が挙げられます。
①これから栄える条件をもった土地
・城下がとても広大(岡山平野の中心地)
・城に沿って流れる旭川は瀬戸内海に通じて水運に便利
②敵対する西の備中の勢力や、その背後にいる毛利氏に対抗するため
③武器の変化(鉄砲を使う)などにより、山城を築く戦い方から、平野に城を築く戦い方に代わっていく中で、備前に広がる平野に目をつけたこと
その後、直家の息子の秀家は、豊臣秀吉一門の大大名となり、石山の隣の丘である岡山を本丸として天守を持ち、石垣に覆われた新たな城を築き、城下町の整備を進め、堀に囲まれた総構の城が出来上がりました。築城開始は、天正18(1590)年とされていますが、近年の研究では天正16(1588)年の説もあります。岡山城の場合、天守が完成したという慶長2(1597)年を築城年としています。
秀家が築城をした頃は城郭の姿が変化した時代でした。織田信長の安土城以降、それまでの険しい山などの地形を活かした要塞である山城から、戦のための軍事施設としての機能だけではなく、天守を持ち石垣に覆われた治世の象徴として大名の力を示す機能を持つ城が求められたのです。
秀家の築いた岡山城は、天守を始め金箔瓦が葺かれた建物が林立し、天下人・豊臣秀吉の一門である大大名の居城としてふさわしい豪華な姿でした。その天守は、外壁に黒塗りの下見板が付けられ、その外観から「烏城」と呼ばれています。関ヶ原の戦いで宇喜多家が流刑に処されてからは、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)、次いで池田家の居城となりました。
2022年秋に令和の大改修を終えた岡山城。岡山市出身の歴史学者・磯田道史氏の展示監修の他、歴史を楽しく学べる体験型展示やワークショップも充実。
宇喜多秀家の築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられたこともあり、金烏城とも呼ばれます。
★岡山城トピック
・岡山城と忍者
直家の子の秀家の時代になると、岡山城も大きくなり、有名な伊賀忍者もたくさん雇っていたといいます。
所在地 〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1
アクセス ・JR岡山駅から路面電車東山行き約5分、「城下」下車、徒歩約10分
・岡電高屋行き、または東山経由西大寺行きバス、「県庁前」下車、
徒歩約5分
・山陽自動車道岡山ICから車で約20分